2005年11月の茶室『仰松軒』(こうしょうけん)
細川藩初代藤孝夫妻と二代忠興とその妻玉子(ガラシャ)の御廟があります
細川ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の
『四つ御廟』のさらに奥まったところにあり、下から基礎(地)・塔身(水)
『四つ御廟』 の入り口
ガラシャ夫人愛用の手水鉢
妻となったのは、1578年(天正6年)16歳のときであったが、1582年
(天正10年)本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され
味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し1587年(天正
15年)にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
1600年(慶長5年)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人たち
を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み、「散りぬべき
時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ
、38歳の生涯を終えた。(熊本市の案内板より)
旧泰勝寺奥の院に有る五輪塔
・笠(火)・請火(風)・宝珠(空)を表す梵字が彫られています。
1584年(天正12年)細川藩の兵法指南役として格別の待遇で迎えられた
武蔵は、二天一流兵法をあみ出し「兵法三十五ヶ条の覚書」、集大成として
「五輪書」を残し1645年(正保2年)62歳でこの世をさりました
立田自然公園近くにある 『引導石』 台風の影響で標識が倒れていました