立田自然公園

立田自然公園  2004年10月
細川家の菩提寺として建立された泰勝寺(たいしょうじ)跡を公園化したもので立田山の麓に位置します


立田自然公園内の池  2005年11月

 
2005年11月の茶室『仰松軒』(こうしょうけん)


2004年10月の『仰松軒』


『四つ御廟』 の入り口

細川藩初代藤孝夫妻と二代忠興とその妻玉子(ガラシャ)の御廟があります


ガラシャ夫人愛用の手水鉢

細川ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の
妻となったのは、1578年(天正6年)16歳のときであったが、1582年
(天正10年)本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され
味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し1587年(天正
15年)にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。    
 1600年(慶長5年)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人たち
を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み、「散りぬべき
時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ
、38歳の生涯を終えた。(熊本市の案内板より)

 
旧泰勝寺奥の院に有る五輪塔

 『四つ御廟』のさらに奥まったところにあり、下から基礎(地)・塔身(水)
・笠(火)・請火(風)・宝珠(空)を表す梵字が彫られています。     
 1584年(天正12年)細川藩の兵法指南役として格別の待遇で迎えられた
武蔵は、二天一流兵法をあみ出し「兵法三十五ヶ条の覚書」、集大成として
「五輪書」を残し1645年(正保2年)62歳でこの世をさりました  

 

 
立田自然公園近くにある 『引導石』 台風の影響で標識が倒れていました

 『引導石』は、武蔵の葬儀の列が弓削に向かう途中、旧泰勝寺(たいしょうじ)
参道脇にあるこの石の上に棺を置き、後に泰勝寺二代目住職となる春山和尚が引導
を渡そうとしたその時、一天にわかに曇り雷鳴が響き渡ったことに由来する。  

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